「聲の形(こえのかたち)」は現実味に欠けるものの、いじめを主題とした意欲作である。「聲(こえ)」という漢字が読みにくいためか、「声の形」、「蟹の形(かにのかたち)」、「蝉の形(せみのかたち)」、などいろいろな言葉で検索されているようだ。
小学生の石田将也(=松岡茉優)は教室のガキ大将である。
ある日、石田の学級に西宮硝子(=早見沙織)という耳の聞こえない女の子が転校してきて、教室は騒然となる。優等生の川井みき(=潘めぐみ)や女子の大将格であった植野直花(=金子有希)が西宮に声をかけるなど、危なっかしいながらも、同級生たちは西宮に友好的だ。
算数の授業中、植野は西宮のためにノートをとってやる。石田は西宮が本当に耳が聞こえないのか気になって突然大声で叫び、教員に一喝される。
国語の授業中、教員は気の抜けた音読をした植野を叱る一方で、西宮が大声でぎこちなく読んでも咎めない。続く石田は西宮の真似をして読み上げ、教員に再び叱咤される。
合唱の練習中、西宮は前奏の最中に調子の外れた大声で歌い出す。それを聞いた植野たちは、合唱コンクールは負け戦だ、と小声で話をする。
休み時間、植野は、西宮のノートをとっていたら授業を聞き逃した、と川井に愚痴る。
こうして植野たちは西宮を避けるようになっていく。しかし西宮はなかなか空気が読めず、何度も植野たちに近づこうとする。
石田はそうした雰囲気を感じ取り、西宮に忠告する。しかし西宮が、私とあなたは友達、と訴えるように手話と声で伝えると、石田は照れくさくて砂を投げ返してしまう。これがきっかけとなって石田はますます気持ちを表現できなくなっていき、西宮を執拗にいじめるようになる。
ネタバレなしの感想
「いじめ」は小説や映画の小道具としては頻繁に使われるけれど、「いじめ」そのものを主題とした作品は珍しい。それはおそらく私を含むいじめの加害者たちが、「いじめ」を商売のネタにすることをためらってきたからだろう。しかし本作のような作品は、もし作れる人がいるなら作ってほしい、というのが大方の願いではなかろうか。
ただ本作の問題は、娯楽性を重視しすぎて話が空想的になってしまったことだ。
高校生になった石田は、自分が周囲から浮いている、というのが悩みらしい。加えて本作には勉強や進路や就職などの話題がほとんど出てこず、石田たちはひたすら小学生のときに犯したいじめの贖罪に励む。これらの描写はあまりに現実離れしており、ともすれば作品の正当性が疑われてしまう。
また、いじめは重大な犯罪であるから、加害者が被害者の顔をまともに見られるとは考えにくい。いじめをしたけれど、そのあとみんなで仲良くなりました、さらに恋愛に発展、という筋書きも都合が良すぎるように思う。
ほかにも本作は不可解な展開が多い。例えば、家出少年を家に泊めても親元に連絡しなかったり、都合よく道ばたで小学校時代の同級生に会ったり、リポビタンDのようなアクションシーンが入ったりする。
しかしそれでも私たちが本作を観て感動するのは、いじめが誰にとっても身近であり、その記憶が頭の中に残っているからではないか。
例えば、私は小学生のときいじめの加害者だったが、それはいろいろあった私の人生の中でも、最も記憶に残っている出来事なのだ。そのことは毎日ではないにせよ、週に1度は必ず思い出す。
一般的にいえば、人間は失敗を繰り返して成長するから、その過程で人を深く傷つけてしまうこともあるかもしれない。だが加害者が自分であった場合、その行為を許すことは到底不可能である。だから本作の最後で硝子が前向きになれたとき、私は何とも言えない思いがした。
本作は観客の感情に訴える方法としては若干反則技を使っているようにも思われるが、いじめに正面から取り組んだ作品として評価したい。ぜひ映画館で観ることを薦める。
原作 大今良時『聲の形』 監督 山田尚子 声 入野自由、早見沙織、悠木碧、小野賢章、金子有希、石川由依、潘めぐみ、豊永利行、松岡茉優、ほか
2時間9分