少女 45点

「少女」はウディ・アレンが撮ったような作品で、あり得ないことの塊である。

キリスト教系高校の黒い制服に身を包んだ由紀(=本田翼)が、講堂の舞台上で「遺書」を読み上げる。途中から、敦子(=山本美月)、そして他の生徒たちも加わる。

子供はみな、優秀な精子と卵子を使って、試験管で作ればいい。それができないなら、子供たちは全員、施設に収容されて育てられればいい。同じ服、同じ食事、同じ部屋、同じ教育、同じ保護者を与えられ、平等な環境の下で。その中で落ちこぼれて、迫害されるなら仕方ない。勉強もスポーツも、努力を重ねてここまで来た。迫害されるようになってからも、努力は怠らなかった。いつか解放される、そう信じて  

白い制服の少女は、水に沈む。

国語の授業中、由紀は鬼の形相で原稿用紙に小説を書いている。敦子は由紀によそよそしい視線を送り、他の生徒たちは由紀をあざ笑う。壇上で教師の小倉(=児嶋一哉)はにやにやと演説している。李徴っていうのは二流の役人だったんだけどな、辞めて作家になろうとしたんだ。でも作家としても二流にしかなれなくて、虎になったってわけだ、と。小倉は話しながら由紀のところへやってくると、将来の作家先生、中島敦は読んでおいた方がいいと思うぞ、と言う。由紀は、中島敦も国語の先生でしたよね、と言い返す。小倉はゆっくりと教室を回りながら、ミステリー作家となった大学時代の友人の話をはじめる。生徒たちは毎度の自慢話をせせら笑うが、小倉は気にとめず話し続ける。

ネタバレなしの感想

普通、脚本家は脚本から嘘っぽさを排除しようとする。映画はそもそも嘘であるが、嘘っぽい映画は面白くない。

しかしながら、本作で目にするのは嘘っぽいことばかりであり、ここまで首尾一貫していると、作品は新鮮に映る。例えば、りんごに少し傷があるとその欠点が目に付くが、ずたずたに切り裂かれたりんごからは、芸術の香りが漂ってくる。

多くの場合、「新しい」作品はその新規性故に面白いと感じられることが多いが、本作は新しいにもかかわらず、面白くない。もちろんその原因は、本作の新しさが、嘘っぽい展開があまりにも多い、という意味での新しさであることによる。

それらの膨大な箇所のうち、一部を指摘しておく。

前半、由紀は舞台俳優のように大げさに話す。確かにそれはそれでいいのかもしれないが、後半、由紀は病院で難病を患う子供たちに会うと、話し方が急に変わってしまう。この転身は、非常に不自然に思えた。

由紀は原稿を命のように大切にしている。しかし原稿は、盗んでくださいよ、とばかりに鞄に突っ込まれ、教室に放置される。

授業中、由紀は小倉に対して、中島敦も国語の先生でしたよね、と言い返した。なのに、窃盗の被害に遭った際は、なぜ一切無言なのか。それに通常、教職員用パソコンのパスワードは生徒の知るところではないだろうし、流失しては困る個人的な動画を学校のパソコンに保存する教員もいないだろう。

敦子の補習先であるケアハウスには、偶然、由紀の祖母が預けられている。その上、敦子は都合のいいところで掃除機を持っている。

光(=真剣佑)、孝夫(=稲垣吾郎)、そして住宅展示場のおじさんが果たす役割ともなると、もはや反則中の反則の域に達している。

由紀と敦子が病院から抜け出す急展開も理解しがたい。

普通人生の中では、無駄な時間もあるし、無駄な人も登場する。だからそれらが完全に欠如すると、作品はひどく人工的なものに感じられてしまう。

本作の話は少し入り組んでいる。しかし細かい説明は行われないから、話のつながりがわかりにくいところがある。

例えば、遺書は誰のものなのか、紫織(=佐藤玲)の死んだ友人は誰で、どうして死んだのか、どっちがタッチーでどっちが昴なのか、紫織と住宅展示場のおじさんの関係は何なのか。だだし、これ以上詳しく説明すると、さらに本作のくどさが際立ってしまっただろう。

本作は、新しい、という点では評価できるが、話としては面白くない。映画館で鑑賞してもよい作品だが、作り物の中の作り物、を観るつもりで出かけるのがよいだろう。

原作  湊かなえ『少女』  監督 三島有紀子  出演 本田翼、山本美月、真剣佑、佐藤玲、児嶋一哉、稲垣吾郎、ほか

1時間59分

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