虐殺器官 15点

「虐殺器官」は脚本が極めて稚拙であり、最後まで観続けるだけでも大仕事だ。

2015年サラエボ。観光客たちがスマートフォンで観光案内を聴いている。足下には砲撃跡に赤い樹脂を流し込んでできた「サラエボのバラ」があり、近くには教会が見える。

彼らの様子を1台の監視カメラが追う。するとそこで、大きな爆発が起こる。

そのころアメリカのボストンでは、1組の男女が愛を交わしていた。

2022年ワシントンD.C.。クラヴィス・シェパード大尉(=中村悠一)は米国議会の公聴会に召喚され、ジョン・ポールとは何者なのか、と問われる。

2020年グルジア。クラヴィスたちアメリカ情報軍・特殊検索群i分遣隊は、野営していた現地の兵士たちを襲う。そして奪ったSUVに乗り込むと、米国の指令本部と連絡を取りながら目標の教会へと急ぐ。

指令本部では大統領等が集まり作戦の様子を見守っていた。そこへ呼ばれていないはずの上院院内総務が現れる。

SUVの中ではラジオがいじられ、現地語の放送に切り替わる。部隊の中で唯一現地語を理解するアレックス(=梶裕貴)によれば、それは単なるプロパガンダだという。

クラヴィスたちは500m先にある検問所を無事に突破し、教会の中へ進入する。

クラヴィスはベートーヴェンのピアノ・ソナタ「月光」の音を頼りに、ある部屋へと辿り着く。中を見ると、軍人がラジオの前に立っていた。

アメリカ人がいない、とクラヴィスは本部へ報告する。そのことを聞いた大統領たちは落胆するが、作戦は継続される。

クラヴィスは軍人を背後から襲い、刃物を突き立ててアメリカ人の居場所を問いただす。軍人は虐殺の首謀者であったが、アメリカ人の行方も、自らがなぜ殺してきたのかもわからないという。

そのころ本部では、感情の異常な乱れを検知していた。隊員たちの感情は戦闘用に調整されており、本来ならば常にフラットなはずだ。

すると突然、クラヴィスが押さえていた軍人の頭が吹き飛ぶ。見ると興奮したアレックスが銃を向けて立っていた。なぜ殺した、とクラヴィスは詰め寄るが、アレックスは自分の行動が説明できない。クラヴィスは規定に従い、作戦から逸脱したアレックスを射殺する。

ネタバレなしの感想

本作の宣伝は実に巧みだ。キャッチコピーは「地獄は、この頭の中にある。」という意味深なもので、さらに予告映像によると、ジョン・ポールと呼ばれる人物が世界中で虐殺を引き起こしているらしい。どういった仕掛けなのか気になった人もいただろう。

だが鑑賞してみれば、飛んだ肩すかしだった。

まず登場人物たちの講釈が異常に長い。なんせ本作の大部分は講釈か銃撃戦かのいずれかである。これではドラマを期待した観客はがっかりすると思う。

しかも講釈の内容は、もっぱら原作者による知識のひけらかしだ。原作は処女作ということもあり、不安だからこその知識武装であろう。しかしむやみやたらと仕入れた情報を盛り込むようでは品がない。蘊蓄はここ一番で使ってこそ威力を発揮する。

さらに、原作者が披露する蘊蓄は大学の教養課程で教えられるような内容の寄せ集めである。例えば、フランツ・カフカやサミュエル・ベケットに関する話題、チェコ語の格変化の複雑さや発音の難しさ(řのことか?)、あるいは、プラハにユダヤ人ゲットーがあったこと、などは広く知られている。だからそんな情報を得意げに紹介しなくてもよい。

さて、本作の核心は「虐殺の文法」である。「虐殺の文法」がなければジョン・ポールは世界中で虐殺を起こすことはできず、よって本作の話ははじめから成り立たない。したがって「虐殺の文法」に説得力を持たせられるかどうかが本作の肝であった。また現実の世界では「虐殺の文法」など発見されていないのだから、「虐殺の文法」の仕組みにこそ原作者独自の哲学が求められる。

しかしながら、原作者はこの最も重要な仕事を放棄した。もちろん完璧な説明は難しいだろうが、原作者なりの考えは用意していなかったのか。たしかに進化生物学風の理屈やノーム・チョムスキーの「普遍文法」などを使って「虐殺の文法」が存在することの妥当性については説得を試みているが、それでは中身の説明になっていない。ツチノコのエサはある、ツチノコが住める森はある、と言われても、肝心のツチノコはどこにいるのだろう。

その上で言っておくと、人々に特定の言葉を繰り返し聞かせるだけで虐殺が始まる、という発想がそもそも幼稚だ。現実の世界で虐殺が起こる背景には、経済、政治、歴史、宗教などさまざまな要因がある。さらに軍人にせよ、一般市民にせよ、人々は自分たちが優位に立てると思わなければ虐殺を始めない。またそうした条件がどのくらい整っているかは国や地域によって様々である。こうした個別の事情を考慮せずにマインドコントロールで一括解決してしまうようでは短絡的すぎるだろう。

特殊検索群i分遣隊の隊員たちは戦闘用に感情を調整されている、という設定だった。本作の描写によればアメフトの観戦中も感情はフラットなのだから、この調整は戦闘中に限らず常に働いているようだ。

ただそうすると、クラヴィスが美女に対してクレヨンしんちゃん並みに弱いことが説明できない。恋に落ちたり、執着したり、あるいは、心の痛みに共感するときには、感情は決してフラットではないはずだ。これは原作における母親の死があろうとなかろうと同じことである。

クラヴィス、ルツィア・シュクロウポヴァ(=小林沙苗)、ジョン・ポール(=櫻井孝宏)の3人はいずれも精神的に未熟だ。もちろんこれには目的があって、もしルツィアやジョンが人格者ならばそもそも虐殺など発生しなかったし、クラヴィスをもう少しまともにするだけでも物語は淡泊になっただろう。

だが何でもありの展開に持ち込むために、主要な登場人物をすべて「欠陥キャラ」にするのはずるくないか。大抵の作家は、人物たちの行動に合理的な説明を与えようと骨を折る。その手間を惜しんで「人格的な欠陥」を楯にするようでは、作家として失格だろう。

また「欠陥キャラ」は多くの作品に見られるが、たいていの場合は「品行方正キャラ」もいて上手くバランスがとられているのだ。トルストイの『戦争と平和』でいえば、ナターシャとソーニャの関係がそれにあたる。主要なキャラクターが全てナターシャのようでは洒落にならない。

脚本以外に気になった点をいくつか上げておく。

まず、本作の動画はひどくぎこちない。絵が複雑だから制作者は大変だったと思うが、欲を言えばもう少し動きに滑らかさがほしかった。

アメフトのテレビ中継にも違和感を感じた。その実況と解説はいかにも優しげだが、制作者はNHKの日本語放送を参考にして作らなかったか。また全編日本語の本作において、アメフトの審判だけが英語を使っているのはなぜだろう。

上のあらすじで「500m」という言葉が出てきた。アメリカでは基本的にメートルという単位は使わないが、米軍ではメートル法を採用している場合があるそうだ。

私が観たのは12日後の昼だったが、小スクリーンにかなりの客が入っていた。本作は貴重な軍事ものということで多くの人を惹きつけたのだろうか。

本作の脚本は観客に対する思いやりが欠けている。軍事マニアは別として、一般の人が映画館で観ることは決して薦めない。

原作 伊藤計劃『虐殺器官』  監督 村瀬修功  声 中村悠一、三上哲、梶裕貴、石川界人、大塚明夫、小林沙苗、櫻井孝宏、ほか

1時間55分

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