「湯を沸かすほどの熱い愛」は人為的な設定があまりに多い。
玄関の古びた戸に貼り紙がしてある。
湯気のごとく、店主が蒸発しました。当分の間、お湯は沸きません。幸の湯
母親の双葉(=宮沢りえ)は2階のベランダで娘の下着類を干している。
部屋に入ると、娘の安澄(=杉咲花)はテレビで天気予報を観ながら朝食を食べている。それを見た双葉は、テレビ観ながら食べるやめなさい、と注意する。安澄は箸を止めてテレビを観続ける。
双葉は食卓に着いて安澄の方を見るが、それでも安澄は観るのをやめない。すると双葉はリモコンでテレビを消す。安澄はしぶしぶ食事を再開するが、味噌汁を一口吸うと、違う、一昨日言ったじゃん、と訴える。双葉は、文句言うんだったら食べなくていい、と言い放つ。じゃあ食べない、と安澄が言うと、双葉は、いいから食べなさい、と促す。
双葉は戸の開いた玄関の脇にいる。安澄は制服姿で上がり口に立っている。早く行かないと遅れる、と双葉が呼びかけると、安澄は、お腹痛い、と言う。それを聞いた双葉は一瞬考えて、学校の裏にコロッケのおいしいお肉屋さんがあったでしょ、帰りに4つ買ってきて、と語りかける。
安澄しぶしぶ外に出るが、ハンカチ忘れた、と言う。双葉は自分のハンカチを差し出す。安澄はハンカチを受け取るが、やだこれ、お母ちゃんのにおいがする、と文句を言う。双葉は、悪かったわね、と言い返す。途中まで乗っていく?、と尋ねると、いやだ、親と2人乗りなんてかっこわるい、と安澄は答える。
安澄は歩いて学校へ、双葉は自転車で職場へと向かう。
ネタバレなしの感想
本作は銭湯を舞台にした真面目な作品で、目の付け所がよい。もしこれが、経営の傾いた銭湯を町のみんなの力で再興しよう、といった話だったら、いかにもありきたりである。
俳優陣の中には決して上手くない者もいる。ただ、宮沢りえの演技は感情がこもりながらも自然であり、杉咲花もそこそこの健闘を見せた。
しかしながら、本作の脚本はきわめて人為的で、そのことが本作の嘘っぽさにつながっている。
まず、奇抜な設定があまりに多いことに驚く。
学校でのいじめはある。親が癌になることもある。配偶者が蒸発することもある。配偶者に先立たれることもある。不倫した配偶者が相手の子供を連れ帰ることもある。両親が早くに死んで家業を継がなくてはならないこともある、夫婦は離婚することもある。悩めるバックパッカーに遭遇することもある。耳の聞こえない人もいる。親に捨てられることもある。
しかし、これらを一気にぶち込んだらどうだろうか。こういったネタはいわば香辛料のようなもので、適量を用いるのが効果的なのだ。塩と胡椒が山盛りかかった料理はまともな料理ではないし、カタカナ語だらけの知事の演説も同様である。こんなことを最初から最後まで見せられる観客の気持ちにもなってほしい。
また本作中、随所において出来すぎた場面が見られる。
都合良くバックパッカーに会う。ちょうど会話が終わったときに誰かがやってくる。人手が必要になる直前に誰かが訪れる。
本作はこういったご都合主義に支えられているから、感動すべきところで感動できなくなってしまうのだ。
人物描写に関しても、2点指摘しておく。
まず、小学生の鮎子(=伊東蒼)に大人も口にしないような硬いセリフを押しつけてはいけない。伊東蒼のセリフが棒読みなのは、明らかに脚本家のせいである。
双葉の夫、一浩(=オダギリジョー)の言動もわざとらしい。一浩は不倫をして家を飛び出すが、双葉が癌にかかっていることを知ると、すぐに帰ってくる。そしてそれ以降はまったく有能で家族思いな亭主に変身する。この差があまりに極端で、いかにも茶番じみている。不倫をしたらどんなに妻を傷つけるかも想像できない夫が、本作のように突然いい人に生まれ変わるとは思えない。あるいは、一浩は一時的にいい人を演じていただけなのだろうか。
本作は、題材はよかったものの、脚本が非常に拙いのが残念だ。映画館で観る必要はないだろう。
監督 中野量太 出演 宮沢りえ、杉咲花、オダギリジョー、伊東蒼、松坂桃李、篠原ゆき子、駿河太郎、ほか
2時間5分