「君と100回目の恋」は発想としては面白いが、いくつかの設定に無理がある。
瀬戸内海を見下ろす小高い丘の上。幼い日向葵海はベンチに座り、割れたレコードを手に持っていた。そこへ幼なじみの長谷川陸がギターを背負ってやってくる。葵海は、戻ってこないお父さんのレコードを壊してしまった、と陸に言う。
大学の大講義室。ミヒャエル・エンデの『モモ』を引用する声が聞こえる。
マイスター・ホラは、心は時間を感じるためのものだと、モモに教えます。心が時間を感じられなければ、時間はないも同じだ、と 。
居眠りしかけていた大学生の日向葵海(=miwa)は、『モモ』を机の前に落として我に返る。本が拾えずに困って親友の相良里奈(=真野恵里菜)と言葉を交わすが、里奈は反対側を見るように促す。葵海が振り返ると、マイクを持った教授(=大石吾朗)がこちらを見ていた。教授は、あんまりのんびりしてると、時間泥棒が盗みにきますよ、と言いながら本を拾って渡す。
授業後、葵海と里奈はバンドサークルの部室へ向かう。里奈はイギリス留学を来月に控えた葵海を心配する。
部室では松田直哉(=竜生涼)と中村鉄太(=泉澤祐希)が雑談している。直哉は葵海に思いを寄せているけれど、愛を告白する勇気が出ない。
そこへ葵海と里奈が到着する。葵海たちのバンド「ストロボスコープ」は、1週間後の7月31日に催される「セトフェス」でライブ演奏をする予定になっていて、その日は葵海の誕生日でもある。
長谷川陸(=坂口健太郎)がまだ来ないけれど、ヴォーカルの葵海、ベースの直哉、ドラムの鉄太は、一足早く練習を始める。しかし足並みが乱れ、葵海は不満を口にした。そのとき葵海は後ろから来た陸に頭を紙で叩かれ、お前が先走ってるんだ、と告げられる。陸はギターを持ち、4人の演奏が始まる。
演奏が終わると、陸は、Bの2小節目を練習しておくように、と直哉に指示し、クラッシュシンバル、と言うと、鉄太のシンバルが落ちる。さらに、スタンドがダメになったから替えた方が良い、と忠告して部室から去ろうとする。そこを葵海に引き留められた陸は、車で留学の買い物に付き合ってほしい、という葵海の依頼を読み当てる。陸はいつも完璧で、欠点などないように思えた。
ネタバレなしの感想
本作はいわゆる「ループもの」だ。「ループもの」とはその名の通り、同じ時間を何度も繰り返すようなSFの一分野である。こういった作品がいつ頃から登場しはじめたのかは定かでないが、私が読んだものの中ではケン・グリムウッドの『リプレイ(1987年)』が同分野に属すると思う。映画でいえば「恋はデジャヴ(1993年)」が代表的だろうし、最近では「バタフライエフェクト」、「ミッション:8ミニッツ」、あるいは「オール・ユー・ニード・イズ・キル」などが作られている。
ただしこれらの作品において、主人公は自分で勝手に時間を操作することはできない(「ミッション:8ミニッツ」でも同様)。過去の制作者たちがそうしてきた理由は、主人公が意のままに時間を操れる、という設定ではまともなドラマになりにくい、と判断したためだろう。
しかしながら、昨今の小説家や脚本家は慢性的なネタ不足に悩まされ、ネタの境界線はしだいに広がってきた。例えばミステリー映画では、2000年代に入ると「夢オチ(実は夢だった、あるいは、頭の中の出来事だった、というオチ)」が急速に増え、2010年代には「超能力オチ(実は主人公が超能力者だった、というオチ)」まで登場した。こうしたオチはそれ以前には意図的に避けられてきたものだ。
そんな流れを受けて、本作は過去と未来を自由に行き来することができる人物を主人公に据えた。そんな本作には、伝統的なループものに「もしも明日が選べたら」の要素を加えたような趣がある。
脚本家の目の付け所は非常に良かった。実際、本作の前半はまずまずの出来であり、この材料でもまともなドラマにできるという可能性を感じさせるものだった。
しかしながら、本作はその後が続かない。本作はただでさえ無理をしているのだから、脚本は綿密に書く必要があった。にもかかわらず、本作の内容は十分吟味されているとは言い難い。
本作は実写である上、陸は自分の意思でワープすることになっている。そのためワープの設定には細心の注意を払う必要があったが、本作はそれを怠った。陸が時間を飛び越える仕組みはまるで子供だましであって、それを見た時点で観客の大半は付いていけなくなったと思う。これならば魔法の方がまだ良かったのではないか。
また本作は序盤をごく日常的な光景にしたため、ワープ時の落差はますます大きくなった。これでは推理中のエルキュール・ポワロが、いきなりドラえもんのタイムマシンに乗って移動しはじめるようなものだ。もし観客への衝撃を和らげたければ、ポワロをタイムマシンに乗って登場さるか、あるいは、タイムマシンよりもっと現実味のある方法を使えばいい。
ループもの共通の課題は、ループからの外れ方である。話の性質上、本作がハッピーエンディングを迎えるためには、葵海と陸の少なくともどちらかの意思によってループから抜け出すことが望ましい。偶然の要因でループができなくなってしまった、という流れでは受け身の終幕になりがちだ。
脚本家はこのように思案して陸が時間を操る仕組みを決めたようだ。ただ、こうした大まかな考え方は良かったのだが、実際に採用されたからくりはあまりにも素朴すぎた。それにより、ループから脱出する際の描写は著しく説得力を欠いてしまった。
一方、本作では何度ループを繰り返しても同じ結末に行き着いてしまう。つまりどんなに工夫しても、同じ結果が同じ日時に引き起こされてしまうのだ。
脚本家がこのようにした第一の理由は、セトフェストでのライブを感動的にするためであろう。そのためには、結果をライブの直後に持ってくる必要があった。
またもう一つは、葵海の記憶を保存しながらワープする、きっかけを作るためだ。このワープに自然につなげるには、結果が起こる日時が固定されていることが望ましい。
こうしたメリットはありつつも、日時まで固定してしまうことには計り知れないデメリットがあった。毎回同じ時刻に同じ結果が生じる理由を合理的に説明するのはほぼ不可能だから、肝心な場面にさしかかるとお茶を濁すしかなくなるのだ。
こうした副作用の影響もあり、本作の終結は少々あっけない。ただ、それを歌でごまかすやり方には違和感を感じた。もっと堂々と終わればよかったのではないか。
私が観たのは初日の午前中だったが、中スクリーンに客がまばらに入っている程度だった。本作の完成度からすれば、まずまず妥当といえる。
本作は攻めの姿勢が素晴らしいけれど、突進の仕方に問題があった。一般には薦めないが、新しい発想そのものを楽しみたい人は映画館で鑑賞してもよいと思う。
原作 Chocolate Records『君と100回目の恋』 監督 月川翔 出演 miwa、坂口健太郎、竜生涼、真野恵里菜、泉澤祐希、田辺誠一、太田莉菜、大石吾朗、堀内敬子、ほか
1時間56分