沈黙-サイレンス- 80点

「沈黙-サイレンス-」は遠藤周作の『沈黙』をマーティン・スコセッシらが映画化したものである。脚本に優れるが、最終盤において宗教的ご都合主義に陥ってしまう。

1633年、雲仙地獄。真っ白な水蒸気が立ち上り、台座の上には男たちの生首が並ぶ。

手を縛られたふんどし姿の5人の男が、武士たちに取り囲まれている。武士の代表は、お前たちのデウスは助けに来ないのか、と皮肉を投げかける。

クリストバン・フェレイラ(=リーアム・ニーソン)は、少し離れたところからその様子を見ている。

男たちはそれぞれ、踏み板の付いた木柱の上で縛り付けられる。拷問官は穴の空いた柄杓で熱湯をすくい、じょうろのようにして男たちの体にかけはじめる。

1940年、マカオ、マドレ・デ・デウス大学。ヴァリニャーノ(=キアラン・ハインズ)は教え子のセバスチャン・ロドリゴ(=アンドリューガー・フィールド)とフランシス・ガルペ(=アダム・ドライバー)にフェレイラからの手紙を読み聞かせた。

この手紙は7年もの歳月をかけてヴァリニャーノの元へたどり着いたものだ。手紙を届けたオランダ人貿易商によれば、フェレイラは信仰を放棄して日本で暮らしているらしい。昨今では日本におけるキリスト教徒への迫害は厳しさを増し、イエズス教会が布教をしたせいで何人もの日本人が処刑された。

しかしロドリゴはオランダ人貿易商の言葉を信じない。フェレイラはロドリゴとガルペの師であり、もっとも心の強い人物であった。きっとオランダ人が教会の権威をおとしめるために悪い噂を流しているのだ。ヴァリニャーノは、状況的に考えてオランダ人貿易商の言うことはおそらく真実だろう、と結論する。しかしロドリゴは、フェレイラを探すため日本へ行かせてほしいと、言う。ヴァリニャーノは強く反対するが、結局ロドリゴたちの熱意に押され、最後の宣教師として2人を日本へ送り出す。

ネタバレなしの感想

上のあらすじ中に「ふんどし」という言葉が出てきた。これを手元にある『広辞苑 第五版』で引いてみると、「①男子の陰部をおおい隠す布。たふさぎ。したおび。ふどし。〈日葡〉」と書かれている。この〈日葡〉とは、1603~04年に日本イエズス会が長崎で刊行した日本語-ポルトガル語辞書である『日葡辞書』のことだ。この『日葡辞書』により、「ふんどし」という言葉がすでに1603年には今日と同じ意味で使われていたことがわかる。

本作はそんな『日葡辞書』が作られて間もない頃の話だ。

本作では政府からの弾圧を受けて多くのキリスト教徒たちが犠牲になる。

だが元はと言えば、イエズス会が日本で伝道しなければこんなことにはならなかった。イエズス会宣教師たちがやってきたおかげで日本中が大迷惑である。

またロドリゴとガルペはとてつもなく愚かだ。ロドリゴたちがなんの後ろ盾もなく日本にやってきたところで、すぐに筑後守(ちくごのかみ)の井上政重(=イッセー尾形)に捕らえられて棄教を迫られるに決まっている。それはヴァリニャーノの情報から事前にわかっていたことだ。また当然のことながら、もしロドリゴたちが棄教を拒んだなら信者の命が危険にさらされるだろう。

と私は思ったのだが、本作はこういった批判に対して一応の言い訳ができるよう巧妙に書かれている。

まず本作の冒頭でヴァリニャーノは、彼らが日本で布教した結果として多数の犠牲者が出てしまったことを認めている。その上で、さらなる悲劇を招きかねないロドリゴとガルペの日本行きに反対したのだ。結果的にロドリゴたちは日本へ行くこととなったが、教会としてはそれを喜んでいない。このような描写があるから、イエズス会を単純に批判するのは難しくなっている。

一方、ロドリゴとガルペが日本へ行ったことで数名の信徒たちが犠牲になってしまう。しかし、ロドリゴたちが赤ん坊に洗礼を授ける場面はあるものの、本作中にロドリゴたちが教徒の数を増やしたような明確な描写は見当たらない。またロドリゴたちのせいで犠牲になったかに見える信者たちも、踏み絵を拒否する、あるいは、十字架に唾を吹きかけることを拒む、など何らかの形でキリスト教徒であることを認め、その結果として処刑されている。つまり彼らは、自らの意思で死を選んだのだ。

この唯一の例外となりうるのが、最終盤にロドリゴが踏み絵を迫られる場面である。ここでは信者の生死に関する責任が全てロドリゴにあり、よって重い意味を持っている。

それにしても踏み絵一枚でここまでのドラマにできるとは驚きだ。本作は主題の性質上あまり動きがないのだが、定石を外して先を読みにくくしたり、繰り返しを避けることによって退屈させないようにしている。

まず序盤においてロドリゴとガルペは二手に分かれる。こうなると大抵の場合はどちらかが捕まるのだが、原作者は私たちの裏をかいてきた。

また他の場面では、フェレイラが来ると見せかけて別の人物が登場する。

中盤以降は、ロドリゴを転ばせる(=棄教させる)ための処刑の連続である。そのため話は単調になりがちなのだが、本作は多彩な処刑方法を持ち出すことによりマンネリ化を避けた。

だが、そんな本作にも欠点はある。

本作は良く言えばじっくり描かれているが、悪く言えばテンポが悪い。もう少し上映時間を短くしてリズム良く進んでいれば、作品全体が引き締まっただろう。

本作に登場する日本人たちは恐ろしく英語が達者だ。トモギ村や五島列島にはインターナショナルスクールでもあるのだろうか。ただ日本人俳優たちが強い日本語アクセントで話すと全編字幕が必要になってしまうから、商業的に言えばこの判断は致し方なかった。

地面がぬかるんでいるのにトモギ村の住人たちが踏み絵を踏んでも泥が付かない。踏み絵が見やすいかどうかよりも、現実的な描写にすることを優先してほしかった。

ガルペが海に飛び込んでからの流れもあっさりしすぎていた。もっと徹底的に描かないとわざとらしく見えてしまう。

本作で繰り返されるのは、キリスト教は日本に根付く、根付かない、根付かないようにされている、などの押し問答である。こういったやりとりを眺めて、哲学的にもう少し深い議論ができないのか、と不満に思った人もいるかもしれない。1600年代前半に無宗教や無神論は考えにくいが、少なくとも、キリスト教と仏教の本質を比較することはできた。

ただその要求は少々酷である。というのも、ロドリゴやガルペはキリスト教一筋で頭が固いし、井上やフェレイラのセリフはロドリゴの信仰を挫くための誘導だ。こうした設定によって、会話の内容はおおよそ決まってしまう。

本作はこのあたりまではよくできていた。しかし最終盤でロドリゴが踏み絵を迫られるあたりから雲行きが怪しくなる。

テレビ東京で毎週土曜の14:30から放送されている「夢、叶えるために…」という番組を知っているだろうか(2017年2月7日現在)。「夢、叶えるために…」はドキュメンタリー風に始まる。主人公は様々な挫折を経験するが、そのたびに周囲の人々に助けられて立ち直る。そうして商売はどうにか軌道に乗るのだが、思わぬ落とし穴が待ち受けていた。そう、主人公は体調を崩してしまうのだ。病院からは退院したものの、どうも体が思うように動かない。そんなとき、主人公はアサヒ緑健の「緑効青汁」に出会う。

本作はそんな「夢、叶えるために…」に似ている。私は最終盤に来るまで、本作の評価を90点前後で考えていた。が、しかしである。そのあとに何が出てきたかといえば、「緑効青汁」ならぬ「キリスト教」の宣伝なのだ。

科学や経済の発展に伴って無宗教者の数は急速に増えてきた。そんな彼らに対して、全ての人間は生まれながらにして罪人であるが、イエスを信じて悔い改めるならば、死後に永遠の命が与えられるかもしれない、などと胡散臭い説教をしたところで拒絶されるのは目に見えている。

そこで本作は聖書の朗読などは入れず、純粋な神への信仰を軸として迫真のドラマを描いた。このまま神が沈黙していれば、大人の話だったね、で終わっただろう。だが本作は黙っていない。最終盤ではさりげなく、神様からのご褒美を用意しているのだ。

私が観たのは12日目の午前だったが、中スクリーンに客はかなり入っていた。本作はよく撮れた映画だから、多くの人に支持されるのは納得がいく。

本作は最終盤に下心が露見してしまったことが残念だ。しかし「仕込み」の部分は非常に優れたドラマだから、映画館で観る価値は十分にある。

原作 遠藤周作『沈黙』  監督 マーティン・スコセッシ  出演 アンドリューガー・フィールド、アダム・ドライバー、浅野忠信、窪塚洋介、イッセー尾形、塚本晋也、小松菜奈、加瀬亮、笈田ヨシ、リーアム・ニーソン、キアラン・ハインズ、遠藤かおる、井川哲也、PANTA、松永拓野、藩田美保、片桐はいり、山田将之、美知枝、伊佐山ひろ子、三島ゆたか、竹嶋康成、石坂友里、佐藤玲、累央、洞口依子、藤原季節、江藤漢斉、菅田俊、寺井文孝、大島葉子、西岡秀記、青木崇高、SABU、渡辺哲、EXILE AKIRA、田島俊弥、北岡龍貴、中村嘉葎雄、高山善廣、斎藤歩、黒沢あすか、ほか

2時間42分

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