「ごんぎつね」では、狐があまりに都合良く描かれるため、最終場面がやや嘘っぽく感じられてしまう。
昔、ごん狐という狐がいた。ごんは一人ぼっちの子狐で、しだの一杯茂った森の中に穴を掘って住んでいた。そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出てきて、いたずらばかりしていた。ある秋のこと、2、3日雨が降り続いたその間、ごんは外へも出られなくて、穴の中にしゃがんでいた。雨が上がると、ほっとして穴から這い出し、村の小川の堤まで来た。ふと見ると、川の中に人がいて、何かやっている。兵十だな、とごんは思った。しばらくすると、兵十ははりきり網を持ち上げて、捕れたうなぎやきすを、ごみと一緒にびくの中へぶちこんだ。それから、びくを持って川から上がり、びくを土手に置いといて、何を探しにか、川上の方へかけていった。兵十がいなくなると、ごんはびくのそばへかけつけた。ちょいと、いたずらがしたくなったのだ。ごんはびくの中の魚をつかみだしては、川の中をめがけて、ぽんぽん投げ込んだ。
本書の絵は非常に丁寧に描かれており、淡く幻想的で、古き日本の里山を雰囲気たっぷりに映し出している。これは日本の昔話の挿絵としては、文句の付けようがない出来だと思う。ただ、1つ気になるのは、ごんがおおよそ直立二足歩行で描かれていることだ。その立ち姿は、ポケモンか、あるいは漫画のキャラクターのような感じがして、周囲の風景からすると若干違和感がある。また、ごんの手に栗を持たせたのも不自然だ。
おそらく、本書の話は結末から逆算して書かれた。もしごんが命をつなぐために兵十の魚を取ったとする場合、それは仕方のないことであって、悪意のあるいたずらではない。すると、川での出来事は後半の展開につながりにくくなる。それを回避するため、作者は、ごんはいたずらで兵十の魚を取った、という設定にした。しかしながら、狐が人間にいたずらをする目的でびくから魚を取り出し、全く手を付けずに行ってしまう、というのは、かなり違和感がある。さらに、ごんは狐の格好をしているものの、その中身は人間である。日本語を話し、人にいたずらをし、同情し、後悔し、償いをする。ごんのこのような能力が本物だとすれば、本書最終部で兵十が取った行動は、読者を納得させるものではないだろう。ごんだけが特別な狐で、兵十はそれに気付かなかった、とでもいうのだろうか。このように、本書では端々に”作者の都合”が目に付くため、最後の場面で感動することが難しいのだ。
本書の筋書きは少々都合が良すぎるように感じられる。ただし、本書は古典に属するものだから、教養のため1度読んでみてもよいだろう。
文 新美南吉 絵 黒井健
36頁 文字数多い 全文字ふりがな付き