準備
まず、のちのち使う用語や記号について簡単に見ておきます。数学がある程度わかっている人、あるいは細かいことに興味のない人は、この「準備」を読み飛ばして「実質含意のパラドクス」から読みはじめても大丈夫です。
真偽
「真」というのは「正しい」という意味で、「偽」というのは「正しくない」という意味です。
命題
命題には、広義の命題と狭義の命題の2種類があります。それぞれの意味は次の通りです。
「広義の命題とは、真偽を追求でき、真偽が一意に確定している文」(式も文の一種と考える)
「狭義の命題とは、広義の命題のうち、真であることがすでに私たちにわかっているもの。いわゆる定理」
広義の命題については、私たちから見て真偽がわからないものもあります。例えば、数学の未解決問題などです。
しかし、たとえ私たちにはわからなくとも、定義により、命題が真であるか偽であるかは一意に定まっています。神様がどちらかに決めている、と考えるわけです。真でもあり偽でもある命題、ときには真でときには偽の命題、あるいは、真でも偽でもない命題、というのは定義上ありえません。
命題でない文とは、
「カエルが鳴く」
「寒い」
といったものです。これらはいずれも真偽の追求の対象ではありません。「カエルが鳴く」はどちらかといえば情景描写のようなものです。したがって、「カエルが鳴く」が真であるとか、偽であるとか、そういう議論自体が成り立ちません。「寒い」も心情描写ですから同様です。
しかし
「このカエルは鳴いたことがある」
は、命題と言えるでしょう。
論理的な議論をするため、以下で扱う文(AやBを含む)は、すべて命題とします。
「AならばB」
「AならばB」を、「A→B」、あるいは「B←A」と略記することがあります。
さらに、「A→B」かつ「A←B」を、「A⇔B」と略記することがあります。
「A⇔B」をもって、「AとBの間に同値関係がある」ということがあります。
また「A→B」について話していることが明らかな場合には、→によって「A→B」を表すことがあります。その他の場合についても同様です。
実質含意のパラドクス
「AならばB」という文は、Aが真でBが真のとき真、Aが真でBが偽のとき偽、Aが偽でBが真のとき真、Aが偽でBが偽のとき真、というふうに高校や大学では教えると思います。
しかし、これには納得できない点があります。次の例を見てみましょう。
(a)「月がチーズでできているならば、カバは生き物である」
A:「月がチーズでできている」
B:「カバは生き物である」
(a)は不思議な日本語です。でもAが偽で、Bは真ですから、上で述べたことによれば、(a)は真となります。これは理解しがたいことです。そもそも、(a)は日本語としてまともな文になっていません。
このような現象を「実質含意のパラドクス」といいます。
では、次の文はどうでしょうか。
(b)「ネッシーが存在するならば、ネス湖には1万t以上の魚が存在する」
A:「ネッシーが存在する」
B:「ネス湖には1万t以上の魚が存在する」
真偽はともかく、(b)はちゃんとした日本語になっています。
では(a)と(b)の違いはどこにあるのでしょうか。
(a)の場合、A:「月がチーズでできている」は明らかに偽ですし、B:「カバは生き物である」は明らかに真です。また、AとBの間には何の因果関係も感じられません。
しかしながら(b)の場合、A:「ネッシーが存在する」は一概に真とも偽とも言えず、B:「ネス湖には1万t以上の魚が存在する」も同様です(一般人から見れば)。さらに、AとBの間には一定の因果関係があるように思えます(ネッシーが巨体を維持するには、エサとなる魚がある程度必要)。
このように、私たちが日常生活において「AならばB」を使うのは、AやBの真偽が私たちから見てわからず、またAとBの間には因果関係がある場合がほとんどです。
ただし、
「宝くじを買わなかったならば、1等賞は当たらなかった」
「風が吹けば桶屋が儲かる」
といった例外はあります。
しかし「宝くじを買わなかったならば、1等賞は当たらなかった」は、現在形に直せばごく普通の条件文であり、「風が吹けば桶屋が儲かる」も、「風が吹く」と「桶屋が儲かる」の間に、一応、因果関係があるとされています。
したがって、こういった例外はおおよそ技術的なものといえるでしょう。
A,Bの真偽と「AならばB」の真偽との関係
そこで、AやBの真偽は私たちが見てもわからず、またAとBの間には因果関係があるとします。
抽象的な議論では理解しにくいですから、これらの条件を満たす例文(b)について考えていきましょう。
(b)「ネッシーが存在するならば、ネス湖には1万t以上の魚が存在する」
A:「ネッシーが存在する」
B:「ネス湖には1万t以上の魚が存在する」
AとBの真偽の組合せは
- Aが真でBが真
- Aが偽でBが真
- Aが偽でBが偽
- Aが真でBが偽
の4通りで全てです。ここで(b)の意味をよく考えれば
- Aが真でBが真
- Aが偽でBが真
- Aが偽でBが偽
のいずれかを仮定したときは(b)は真であり、
- Aが真でBが偽
を仮定したときは(b)は偽である、と言えます。
したがって、次の同値関係が真であることがわかりました。
1または2または3 ⇔ 「AならばB」は真。
この結果を表にまとめれば、
A | B | A→B | |
1 | 真 | 真 | 真 |
4 | 真 | 偽 | 偽 |
2 | 偽 | 真 | 真 |
3 | 偽 | 偽 | 真 |
となります。これを「真理表」といいます。
ちなみに、ここまでの議論で
①「AならばB」は命題である
②「AならばB」の真偽はA,Bの真偽のみに依存する
ということもわかりました。
現実とモデル
上記の⇔は議論により導かれたものですから、定理です。「『AならばB』は真である」ことを「1または2または3」によって定義しているわけではありません。
私たちは日本語のもつ常識的な意味に頼って議論してきました。「常識的な意味」というと厳密ではないような印象を与えるかもしれませんが、論理学者や数学者も言葉の常識的な意味に頼って論じています。彼らだって、「AならばB」の意味は「AならばB」としか答えられません。
しかし論理的推論について研究する際には、研究対象はもっと頑丈であるべきです。(ちなみに、論理的推論の研究を行っているのは普通の数学者ではなく論理学者です)
そこで論理的推論について研究したい場合は、生の論理的推論を研究するのではなく、論理的推論をモデル化したものを研究します。モデルはきちんと作りさえすれば、まともな研究対象になります。
こうして「(研究対象としての)『AならばB』」を私たちが定義することになりました。ではどうするかというと、上記の⇔(または真理表)によって「(研究対象としての)『AならばB』」を変数A,Bの関数として定めればよいのです。もちろんAやBには任意の命題を入れることができます。上記の⇔は「(本来の)『AならばB』」の性質ですから、この定義は妥当と言えるでしょう。
ここで、なぜ「(研究対象としての)『AならばB』」を関数として定義したのか、と不思議に思うかもしれません。基本的には、私たちがまともに議論できる対象は「集合(=ものの集まり)」に限られます。集合でないもの、例えば、ライオンとかクマとか、そういったものは属性が曖昧であり、よって論理的な議論の対象にはなり得ません(一体どうやってライオン≠クマと結論できるでしょうか?)。そして、関数は集合の一種であり、集合の中でも研究しやすいものです。
もちろん「(本来の)『AならばB』」は変数A,Bの関数ではありません。「(本来の)『AならばB』」は生ものであり(つまり、私たちが数学的に定義した概念ではないため)、上で述べたように、「(本来の)『AならばB』」の意味は「(本来の)『AならばB』」としか説明しようがありません。
また、論理学者や数学者が「(本来の)『AならばB』」が真であることを示すのに、上記⇔の左辺が真であることを確認しているわけでもありません。「(本来の)『AならばB』」が真であることを示したければ、それを直接示せばいいだけです。たしかに条件文は意味が取りづらいですが、国語ですから、よく考えれば理解できると思います。
一般化
これまではAやBの真偽は私たちが見てもわからず、またAとBの間には因果関係があると考えてきました。
しかしどうせですから、これらの条件が当てはまらないAとBについても真理表を適用しましょう。これは数学ではよくある「一般化」です。
ちなみにこうすると、すべてのA,Bについて
①「AならばB」は命題である
②「AならばB」の真偽はA,Bの真偽のみに依存する
ということになります(これらの条件は既述です)。
先ほどの例
(a)「月がチーズでできているならば、カバは生き物である」
A:「月がチーズでできている」
B:「カバは生き物である」
に戻ると、Aは明らかに偽で、Bは明らかに真、そしてAとBの間に因果関係はありません。しかし私たちは真理表に従うのですから、(a)は真となります。
一般化しておけば、のちのち議論するときに便利です。特殊なAとBについてしか「AならばB」という文が機能しないようでは不便でしょう?そもそも、AやBの真偽が私たちから見て明らかかどうか、あるいは、AとBの間に因果関係があるかどうか、の判断は主観的ですから、厳密に言えば、一般化という以前にこのようにしておかなくてはなりません。
まとめと補足
「実質含意のパラドクス」は、一般化による帰結であることがわかりました。より詳しい議論に興味のある人は、次の文献を読んでみてください→ 久木田水生「条件文の論理」
ななぞうもこのページを書くにあたり上の「条件文の論理」を参考にさせていただきました。「条件文の論理」中における、「AならばB」を「十分条件」の意味に捉えよう、という話とラッセルの議論は、本質的に同じものです。
例文(b)「ネッシーが存在するならば、ネス湖には1万t以上の魚が存在する」がいわゆる「十分条件」の意味であることは国語的に考えて当然でした。
ただし日常会話では、文の語感や文脈によって「AならばB」がいわゆる「必要十分条件」の意味に捉えられることもあります。
例えば「龍の首の珠(たま)を持ってきたならば結婚する」というかぐや姫の言葉です。このセリフには「龍の首の珠を持ってこなかったならば結婚しない」という意味も含まれていると推測できます。もしその推測が正しいとすると、「龍の首の珠を持ってきたならば結婚する」は「必要十分条件」を表していることになります。
しかし空気の読めない人は「龍の首の珠を持ってきたならば結婚する」という主張から、「龍の首の珠を持ってこなかったならば結婚しない」という意味をくみ取れないかもしれません。
このように「AならばB」の意味が個人の解釈によって「十分条件」だったり「必要十分条件」だったりと揺れてしまっては議論上困るので、どちらかに統一する必要があります。
一方、「(必要十分条件の意味での)龍の首の珠を持ってきたならば結婚する」は「『(十分条件の意味での)龍の首の珠を持ってきたならば結婚する』かつ『(十分条件の意味での)龍の首の珠を持ってこなかったならば結婚しない』」と分解することができます。
こうした理由から、
「AならばB」は(文の語感や文脈に関わらず)全員が「十分条件」で解釈しよう、
というのが数学における決まりになっています。
したがって数学的に言えば、「龍の首の珠を持ってきたならば結婚する」という宣言には「龍の首の珠を持ってこなかったならば結婚しない」という意味は含まれていません。数学は空気を読めない人の味方です。
論理の基本的なことについては、宮島静夫「微分積分学Ⅰ(共立出版)」の最初の方にも少しだけ関連する解説があります。
なおこういった基礎的な話は、大抵の数理論理学の本には書かれていません。そうした参考書ではいきなりモデルの説明から入ることが多いです。